「銀河鉄道の夜」ますむら・ひろし ☆"ほんとうの幸い"とは?☆
「作品をねちねちと追って来た」と、あとがきでもご自身で書かれているとおり、かなり原作そのままに近づいていると思います。
細かい描写はもちろん、なんというか、雰囲気、空気、感じる音や温度、みたいなものが。
わたしは銀河鉄道の夜が好きで、特にブルカニロ博士が出てくる初期稿が大好きなのですが、その部分も漫画にしてくださって、とても嬉しい。
好き過ぎて朗読をYouTubeにUPしたことがあるくらいです。(さりげなくリンクを貼る…笑)
宮沢賢治の原作もこのますむら氏の漫画も、何度も読んだのですが、今回読み返した時、一番気になった・惹かれたのは、たとえばジョバンニの言う、
「僕はもう あのさそりのように ほんとうにみんなの幸いのためならば 僕のからだなんか 百ぺん灼いてもかまわない」
「けれどもほんとうのさいわいは 一体何だろう」
というような言葉です。
同じような言葉を、ジョバンニやカンパネルラが何度も口にします。
私も最近、似たようなことを考えていたので、気になったのかもしれません。
実際に身を焼かれるのは熱くて痛そうなので嫌ですが(笑)、みんなの幸せ(そこには自分も入っています)のために、この世を天国にするために、できることはなんだってしたい、そのために生まれてきたのだから。言葉にするとだいたいそんなようなことを、漠然と考えていました。
それは決して自分を犠牲にすることではなく。具体的に何をするのかはまだよくわかっていませんが。
だからジョバンニやカンパネルラが、心強い同志のように感じます。
「みんなの幸い」を探ってゆく、同志。
もう一つ、「銀河鉄道の夜」は宗教についても縁が深い作品で、そのことも私の心にひっかかります。
作中、十字架や賛美歌が出てきたり、神様、天上、という言葉が出てきたりします。
賢治はクリスチャンだったのかな、と考えてしまいそうになりますが、実はとても熱心な仏教徒だったそうです。
自分の信仰する教え以外の宗教のモチーフを作品全体に描くなんて、(それもとても自然に、否定するためでなく、宗教や神様についてとても広い視点から描いている)すごいことだと思います。
賢治が広く高く大きな視点を持とうとしていたことは、作品全体から伝わってきます。
例えば、ジョバンニと、列車を途中で降りてゆく乗客たちのこの問答…
「だけどあたしたち もうここで降りなけぁいけないのよ ここ天上へ行くとこなんだから」
「天上へなんか 行かなくたっていいじゃないか ぼくたちここで 天上よりももっといいとこを こさえなけぁいけないって 僕の先生が言ったよ」
「だって おっ母さんも行ってらっしゃるし それに神さまが仰っしゃるんだわ」
「そんな神さま うその神さまだ」
「あなたの神さま うその神さまよ」
「そうじゃないよ」
「あなたの神さまって どんな神さまですか」
「ぼくは ほんとうは よく知りません けれどもそんなんでなしに ほんとうの たった一人の神さまです」
嘘とか本当とかでなく、ほんとうの神さま…言葉にうまく出来ないけれど、ジョバンニが言いたいこと、わかる気がします。
あらゆる宗教が伝えてきた神、は、ほんとうは同じものではないかと、私は常々思っています。別のものみたいに見えてしまうけれど、ほんとうは。
そして、宗教とそれ以外のあらゆるものも、別のものではない、繋がっているということも常々思っています。
ブルカニロ博士篇の初期稿で、こう書かれているように。
「けれども もしおまえがほんとうに勉強して 実験でちゃんと ほんとうの考えと うその考えとを分けてしまえば その実験の方法さえきまれば もう信仰も 化学と同じようになる」
わたしの神さま・あなたの神さま。
宗教・化学。
分けてしまうから、あっちが正しい、こっちが正しい、と、混乱してしまう。
あれ、でも、「ほんとうの考えと うその考えとを分けてしま」うことも、分けることですね?
…勉強しなくても、実験しなくても、もしかしたら、よいのかもしれません。信仰も化学も、元から同じひとつのもので、実はずっと、分けられてなんかいなかったのかも。
たった今、そう思いました。
「庭 Vol.0」(庭編集部) ☆庭で踊り狂う人たち☆
とても素敵な本に出会ったので紹介したいと思います。
庭、です。
園芸誌ではありません(笑)
ある日、Twitterで庭のことを知りました。
タイムラインに、誰かがリツイートした庭のアカウント(@niwadeau)のツイートが流れてきたように記憶しています。
「庭は多人数でつくる文化誌です」との事。
たくさんの人が、文章や写真や詩などを自由に寄稿しているらしい。
食べられる野草について、とか、サイゼリヤを美術館として捉えて山手線沿線のサイゼをレポート、とか、カヌレ図鑑、とか。
なにそれめっちゃ面白そう。
しかも、電子版と製本版があり、製本版は表紙デザインが24種類あり自分で選べる!
そんなの聞いたことないぞ!すごい!
(現在の購入ページを見ると9種類になっているので、売り切れバージョンも出てきたのかもしれません)
大いに興奮するわたし。
製本版にも心惹かれましたが、電子版を購入し、iPhoneで読みました。
庭、ですね。まさに。
自由で平和でユニークな庭。
生命体ひとつひとつが、好き勝手に踊り狂ってる、庭。
でも調和。その好き勝手が、調和。
そんな感じがしました。
ひとつひとつの寄稿記事が、それぞれ、著者の愛と情熱でできている。暑苦しくなく、押し付けることなく、「わたしはわたしの人生でこういう火を灯しています。以上です。」
みたいな。
とても居心地のいい庭です。
そして、自分もなにか書いたり現したりしたくなる。
わたしも、いい感じの庭で誰かと踊りたくなりました。
以下、いくつかの寄稿記事について感想というか紹介というか、してみたいと思います。敬称略。
【野草はうまい (いきのいい魚)】文章、写真
道端にこんなうまそうな野草あるんですね!!
スーパーで野菜買わなくていいじゃん…。
【大げさな対比と孤独(中島由佳)】写真
見たことないのに、見たことある気がする風景。好きです。
【滝のポップ・ミュージック(ヤング)】文章、写真、シールを貼る、プレイリスト
滝とファンシーへの愛が炸裂。シール可愛い。
【安全な廊下(九鬼倫子)】短歌、写真
愛犬との暮らし、死。最後から2番目の短歌がわたしは好きです。
【映画、写真、詩(生活)】文章、写真、詩
生活の記録、と題された写真たちがとても良かったです。写真は、純粋に「記録です」って感じのが好みです。でも記録以上のものがわんさか写っちゃうんだよね。それを感じちゃうのが写真を見る醍醐味。
みなさん素晴らしいのですが、キリがないのでこのへんにしときます。
是非!読んでみてほしい。
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「庭」は、製本と販売形態もとてもユニークです。
通常、出版物は出版社が発行部数を決め印刷製本し書店に卸しますが、庭は受注生産が可能な製本直送.comというサービスを利用し、直接読書に発送するという方法をとっています。
庭の公式HPに、そのことについて掲載されています。↓
驚きました。本当に色々なサービスがあるのですね。
「本をつくりたい、そして販売したい」と考える人にとって、費用や手間は大きなネックになると思いますが、受注生産ならば。決済や発送も代行してもらえるならば。
既存の流通に乗せなくても、けっこう気軽に本が作れる。これは希望ですね。わたしも作りたい。
製本版の購入ページ↓
kindle版の購入ページ↓
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「トーマの心臓」萩尾望都 ☆すべてが美しい☆
どうしよう、好き過ぎて感想が上手く言語化できないかもしれません(笑)
…話はいきなりそれますが。私は蟹座なのですが、↑好きなものに対するこういう反応、しいたけ占いのしいたけさんが言ってたこれですね。まさに。
https://ameblo.jp/shiitake-uranai-desuyo/entry-12347352267.html
はい。しいたけさんの本も、いつか読んで感想を書いてみたいと思います。
「トーマの心臓」に戻ります。
これを言ってはこの作品が存在する意味がなくなってしまう気もするのですが、
「トーマ、なにも死ななくても…!」
と思ってしまうのです。
私なら、きっとそこまでしない。
でも、この作品が好き過ぎるってことは、私の中にトーマのような存在がいるんですよね、きっと。好き過ぎるものと嫌い過ぎるものは、たいてい、自分の中にあるものだから気になる。
「自分の肉体の死をもって、愛を表現する」自分が…。
この作品は、トーマの死から始まります。すべてはそこから始まる。
そして、トーマの死の場面の直後に、トーマが書いた詩が展開されます。
この詩が、私にはとても美しく感じられて、初めて読んだ時、まだ始まったばかりなのに「この作品が好きだ!」と思ったのです。
それはこんな詩です。
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ぼくはほぼ半年の間ずっと考え続けていた
僕の生と死と それから一人の友人について
ぼくは成熟しただけの子どもだ ということはじゅうぶんわかっているし
だから この少年の時としての愛が
性もなく 正体もわからないなにか透明なものに向かって
投げだされるのだということも知っている
これは単純なカケなぞじゃない
それから ぼくが彼を愛したことが問題なのじゃない
彼がぼくを愛さなければならないのだ
どうしても
今 彼は死んでいるも同然だ
そして彼を生かすために
ぼくはぼくのからだが打ちくずれるのなんか なんとも思わない
人は二度死ぬという まず自己の死 そしてのち 友人に忘れ去られることの死
それなら永遠に
ぼくには二度目の死はないのだ(彼は死んでもぼくを忘れまい)
そうして
ぼくはずっと生きている
彼の目の上に
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なんだか、ちょっと怖いけど美しいと感じてしまうんですよね。
(彼は死んでもぼくを忘れまい)
なんて怖すぎるし(笑)
でもなんだか詩のリズムが心地よくて、トーマの執念みたいなものも、そのリズムに乗ると軽やかにすっと受け入れられる感じがします。
この作品の舞台は、ドイツのちょっと田舎にある歴史ある全寮制の男子学校、シュロターベッツ。
トーマが愛した「彼」は、同じ学校の一学年上のユーリです。
優等生で委員長で人望も厚いユーリですが、実は自分を偽りながら生きている。
トーマはそれに気づいていて、ユーリの心を開こうとするけれどもユーリは頑なにそれを拒む。
トーマとユーリの関係性を軸に、他の人物の物語も絡んでゆくので、ちょっと群像劇のような雰囲気もあります。
ユーリはトーマ含めたくさんの友人に愛されていて、ユーリらしくいきいきと生きてほしいと願われている。ユーリはそれに気づくことができるのか、自分を取り戻すことができるのか…がこの作品の肝ですね…気になる人は、是非読んでみてください。
「愛」という言葉が、とても頻繁に出てきます。
「愛している」というセリフが。
それは愛ではなく執着だよね…と感じる場面も多々あるのですが、それも含めて、すべてが美しい作品だなあと思います。
思春期の、過剰なまでに溢れる感情と、自分の価値について悩む日々。
その特別な時間が、とても美しく描かれている作品だと思います。
「Q健康って?」よしもとばなな ☆健康のダイナミズム☆
「Q健康って?」よしもとばなな
この本は、「健康とはなにか」がスッキリ明快にわかるような本ではないし、「これをやれば健康になれる」系の本でもない。
読みながら、「自分にとっての健康ってどんな状態だろう?」と、自然と探究心が湧いてくるような本だと思う。
自分の身体や人生は自分にしか生きられないのだから、自分にとっての健康もまた、自分にしかわからないのではないだろうか。
病院で「あなたは病気です」と診断されたとしても、それがどんなに大変な症状のある病だとしても、その人を身体だけでなく全体で見たら、どうも幸せそうで人生めっちゃ充実してるようにしか見えない、みたいなことはあり得る。私はそういう友を一人知っている。(そして幸せそうなまま、宇宙へ還っていった。)
そういう人は、そういう状態は、「健康」って言っていいんじゃないだろうか。
そういう、固定された価値観にとらわれない「健康」についての話が、この本にはたくさん語られている。
よしもとばななさんと、身体のスペシャリストの対談(編集者の方も時折会話に入る)が四つ、また、ばななさんのご友人のがん闘病記が巻末に掲載されている。
対談の中で共通して多く語られていたのは、というか私が個人的に気になったのは、「プロセス(過程)であって、目的や結果ではない」ということだった。
健康は目指すものではない、ということだ。
例えば風邪をひいたとして。
熱が出て辛い症状が出て、一見、健康ではないと思うかもしれない。
でも、風邪の症状はウィルスやなにかにしっかり反応しているということだから、反応できる身体である、という面から見れば、とても健康な状態と言えるのではないだろうか。
身体が弱りすぎて鈍感になると、日常的な風邪で反応できなくなり、ある日突然、溜まった分が大きな病気として現れたりするのではないだろうか。
身体は、色々な反応をする。それが痛みや不快感として感じられることもある。
でもそれは、バランスを取るための身体の大事な機能ではないか、と私は思っている。
その反応のダイナミズムが、そのプロセスが、健康、ってことなんじゃないだろうか。
この本の対談者として参加されている、ロルファーの田畑さんのロルフィング施術を受けたことがある。
施術を受けてから自分の身体の感覚を観察するようになって、私は前述の「症状(身体の反応)はバランスを取るための機能」と思うようになった。
ロルフィングを受けるにあたって、主に気になっていた身体の状態は、右膝の違和感(関節が上手く噛み合っていない感覚、歩きづらさ)だった。
数年前からのもので、整骨に通って一旦治っても、またすぐに違和感が戻ってきてしまうので困っていたのだ。
ロルフィングに通っている間も、違和感が無くなったりまた出てきたりしていた。
10回受ける基本の施術が完結した後、半年から一年くらいは身体の変化は続くということだったので、様子を見ていた。
ある日、また右膝の違和感が出てきて、またか…と少し落胆していたのだけど、その違和感がまるで身体の中を流動体になって移動するように、腰や左足に移動していったのだ。
その時、あちこちが痛くなったのに、「あ、これは全然大丈夫なやつだ。」と思えたのだった。身体がなにか調整している、と感じたのだ。そんな風に感じたのは初めてだった。
そのうち、気づいたら右膝の違和感は現れないようになっていた。
以前その症状に困っていたことも忘れるくらいに。
なんだかロルフィング体験記みたいになってしまった。笑
とにかく、身体のバランス調整機能はかなりすごいので、もっと信じよう、とこの本を読んで改めて思った。
深く、多岐にわたる面白い話がたくさん載っているので是非オススメしたい。
「坂口恭平 躁鬱日記」坂口恭平
(2013、医学書院)
【坂口恭平さんが気になる】
最近、坂口恭平さんがすごく気になるし好きだ。
最初はTwitterで見つけて、彼の在りようにどんどん惹かれていった。
坂口さんは、「〜をやってる人」と一言ではいえない人だ。
文章を書く。絵を描く。歌を歌う。セーターを編む。自分の携帯電話番号を公開して、「いのっちの電話」をやる。「いのっちの電話」は、死にたくて辛くて仕方ない人たちが坂口さんに電話をかけて話をするというものだ。(死にたくなくても辛くなくてもかけてもいいのかな。坂口さんとお話してみたい。)お金はかからない。坂口さんは、日本の自殺者をゼロにすることを本気で考えている。
他にもなんかすごい色々やってる人なのだが、このくらいにしておく。
【躁鬱と編み物】
それで、坂口さんは躁鬱病(今は双極性障害と呼ぶらしい)なんだそうだ。その日々を記録したのが、この本である。
ちなみに、この本は数年前のもので、現在の坂口さんは鬱の症状が全く現れなくなったそうだ。
なんと、編み物を始めたら鬱がやってこなくなり、病院も薬もやめたそうだ。すごい。
たぶん、編み物って熱中すると瞑想状態になるから、無になって、心身のバランスが整うのではないかと思う。
私も、長い散歩や、最近描いてないけど点描で曼荼羅描くとか、そういうことをすると余計なものが削ぎ落とされてスッキリする感じがあるので、編み物もそういう感じなのでは。
その、躁鬱時代の坂口さんの日記。躁状態の時はとにかくアイデアがバンバン出てくるし、アウトプットしまくり。テンションも高い。めちゃめちゃ前向きで陽気。
しかし、月に一度、一週間ほど鬱がやってくる。その間は何も手に付かず、寝込み、自分を否定し続ける。
【躁鬱、生理、デトックス。】
…たった今思ったのだけど、これって女性の生理みたいではないか。月に一度、一週間ほどブルーになる。
個人差はあるが、生理中やその前後は、使い物にならないことが多い。デトックス中だから、普段とは違う心身の状態なのだ。
生理が終わると女性はキラキラと輝き出す。肌ツヤは良くなり、ご機嫌になる。
そうか、鬱はデトックスか。そうなんじゃないかとは思ってたが。
私は躁鬱ではないが鬱病のような状態を長期間経験したことがある。
でも鬱が明けた後、寝込んでた日々が嘘のように活動的になり、北海道から東京にウキウキと移住までした。
【男も女も、Let's躁鬱、デトックス。】
「躁鬱日記」を読んで、「ほんとうは誰しも躁鬱なんじゃないかな。程度やタイプは人それぞれあっても。」と思った。そのことをここに書こうとした。
書きながら、それ以上の新しい発見があった。
鬱はデトックス、生理。生理と躁鬱は似てる。
女性は毎月、自動的にそれをやっているが、男性はどうやってデトックスしているのか?
坂口さんのように、必要になればデトックスシステムが作動し鬱になるのか?
そのシステムが錆びてしまって、作動しなくなっていたら…?
恐ろしい。だけど、みんな錆びがちなのでは…?
堂々と鬱になろう。引きこもろう。
バランス、バランス。
「アナザー・ワールド 王国 その4」 よしもとばなな
読書ブログはじめました。
第一回目は、よしもとばななさんの「アナザー・ワールド 王国 その4」です。
【ざっくり概要】
「王国」シリーズの最後の作品。
「アナザー・ワールド」というタイトル通り、1から3までとは別の世界が描かれている。
3までは雫石(しずくいし)という女性が語り手となっている世界。4では、その娘、ノニの視点から語られる世界となっている。
【最後に残る「希望」が好き】
私はシリーズの中で、この作品が一番好きだ。
1から3で描かれた色々が、すべて解放され、昇華され、希望しかないから。
そう、希望しか残らなかった、という感じなのだ。
ばななさんの作品は、どれも必ず希望が最後に残る。
人生の色々が嵐のように展開され、感情が溢れ、すべてが終わったあと、真っ白い空間に、何かが輝いていることに気づく。それは希望というものだった。
そんな感じ。
【魂の片われ。「君の名は。」】
ノニとキノの出会いが、素敵だ。
ミコノス島の石段で出会う二人。
お互いに、亡くなった大切な人との思い出を味わうために島へ何度も旅に来ていた。
その日その瞬間に出会ったことは、完璧なタイミングだったのだろう。
『君が幸せな子だっていうのは、階段の上から後ろ頭を見ただけでわかったよ。』
キノの言葉。
そしてノニは、
「私は説明を求めなかった。」
「私はその言葉の意味をもう一回、おいしい果物みたいにみずみずしく甘く味わった。」
映画「君の名は。」を思い出す。
ノニとキノは、お互いに魂の片われのような存在だと私は思う。
「君の名は。」も、魂の片われのお話だ。
そういえば、ノニとキノの出会いは石段で、「君の名は。」でも階段での重要な出会いのシーンがあった。
階段。
上と下、天と地、を繋ぐもの。
天国への階段、なんて表現もある。
魂の片われとの出会いは時空を超越して「この人を知っている」という感覚だから、階段のように「あちらとこちらの境目」みたいな場所と相性がよいのだろうか。
【宇宙からのシナリオ。そして私たちの愛おしい日常。】
そんなロマンティックとも感じられる出会いから始まるこの物語だけれど、全篇を通して流れている空気というか、匂い、みたいなものは、とても生々しく野生的だ。
人間くさい、とも言える。
あるいは、自分の本能や勘を信じる、とか。
理屈ではない、何かに導かれるような運命の出会いは、ある。だけどこの世で生きる私たちにはドタバタとした日常や、どうしようもなく溢れてくるさまざまな感情がある。
だから、宇宙の采配みたいな出来事に驚いたりときめいたりしながら、あくまでも日常を生きる。地上での人間ならではのライフを楽しむ。
そんなことをこの作品から感じる。
ばななさんの他の作品からも、等しく感じる。
そしてそれは、そっくりそのまま、私が自分の人生でしたいことなんだと思う。
「アナザー・ワールド 王国その4」よしもとばなな
(新潮社、2010年)